NANTIDA KAEWBUASAI(ナンティダー・ゲオブアサーイ) |
本名 ナンティダー・ゲオブアサーイ(トゥー) 誕生日 1960年8月16日生 |
プロフィール |
ナンティダー・ゲーウブアサーイは、20年のキャリアをプロとして音楽界でやってきた女性歌手だ。彼女の人生は、タイの音楽界の1つの歴史記録であると考えられる。
はじめに歌を教えた先生は、韓国人の先生だった。最初に練習した歌は、「MY WAY」と「I WHO HAVE NOTHING」だった。歌の練習は11歳の子供であった彼女にとって、ずっと楽しくないものだった。先生が来たとき、階段の下に隠れて逃げたものだった。しかし、その頃の練習を休みなく耐えたことが、ナンティダーを今日のような最前線のアーティストにさせた。 スダー・チューンバーンが、ナンティダーを音楽界にデビューさせた。スダー・チューンバーンは、偶然ナンティダーが歌を稽古しているのを聞き、TV3の歌のコンテストに紹介し応募させた。また、母親も支持してくれた。しかし、ナンティダー自身が同意しなかった。よって、 母親は、計画的に彼女をだました。それは学校まで彼女を迎えにいって、「おばあさんが調子よくなから病院にいこう」と誘い、「しかし、まず、TV3に用事があるので、寄り道させてくれ」、と言って、彼女をTV3に連れて行ったのだ。 こうして、どうにかこうにかコンテストは始まった。しかし、終了したのときは、ナンティダーは1978年のTV3の最優秀賞を受賞し、その後、香港のコンテストにも出て、翌年のアジア最優秀歌手賞も受賞した。 19歳の少女は、国際的な水準の賞をひっさらった初めてのタイ人だった。このことは多くの益をナンティダーに与えた。その時代の輝かしいスターとなった。彼女は歌だけでなく、映画出演でも名声と成功を得た。たとえば、「プレーン・ラック・ドックマイ・バーン(花が咲く愛の歌)」(ソンポン・チャートリと共演)などだ。歌では、コンテストに勝ったあと、ナンティダーは、1979年、TV3から外国の歌ったデビュー・アルバムをリリースした。そして、その年の暮れ、タイ語のアルバムももう1枚リリースした。“ハーン・ペーン・シアン・ABC”レーベルで制作したアルバム・タイトルは、『ラック・ターン・デーン(多くの領域を愛する)』だ。その後も、ABCと多くのアルバムを制作した。その多くは、ルーク・トゥンの歌だった。たとえば、「フェーン・クライ・マイ・ミー・パーイ・クウェーン・コー(罪を着せられ、首をつる)」「コーイ・ワウ・メー・ノップ(私は母と話す…)」「チャム・カノップ・ダイ・カー」などだ。そして、1982年に「コーイ・ワウ・メー・ノップ」で最優秀女性歌手賞を受賞した。 ルークトゥンとの長い年月は、ナンティダーを十分に満足させたので、彼女は“ハーン・ペーン・シアン・ABC”からGRAMMYに移籍した。GRAMMYで、彼女は外国曲のアルバムを出したことがある。それはバタフライとの『Something in Our Mind』というアルバムだ。 ナンティダーがGRAMMYから出した最初のアルバムは、『ナンティダー27』で、「DJ…シアン・サイ」を収録したものだった。レワット・プッティナンが歌詞を書き、ウッカロット・プラーンクーンが有名になったメロディーを書いた。国中に響き渡る大ヒットとなった。それから、ナンティダーは、むらなく毎年アルバムを出していった。そして、暇な時間があったとき、ニム先生ことカルヤーラット・ワーラナラット先生と、“ポーン”オラノップ・チャンスタ氏に、理論上と実践の両方で、歌を歌う練習も継続した。 自身の最新アルバムは、『クーン・スッタイ(最後の夜)』で、1998年のリリースされた。ナンティダーの歌のスタイルは、こざっぱりして、甘く、そして、美しい言葉だ。 難しいテーマを用いず、現在も歌手として成功を得ている。それ自体が難しいことだ。しかし、一番難しいことは、競争の激しい音楽業界で、どの歌手が本物で、本物の歌の持ち主かを証明するために、自身の質の高さを守ることだ。 |