- MAI CHAROENPURA(マイ・チャルンプラ)-

MAI CHAROENPURA(マイ・チャルンプラ)

MAI CHAROENPURA(マイ・チャルンプラ)  
誕生日:1969.1.5
好きなスポーツ:乗馬、射撃
俳優業:
映画:「スリヨータイ」「コー・ケー・キットゥン(想うだけを望む)」「ドゥアン・イワー(愛しい人)」「ナーン・ヌアン(ヌアン)」
TVドラマ:「コン・ルン・ムアン」 「ワン・ナム・ウォン(渦巻き宮殿)」
舞台演劇:「バー・コ・バー・ワ(バカはバカ)」
受賞:
1985年 サラスヴァティ金の人形賞
1989年、SEASON AWARDS最優秀新人賞
1989年 STAR MUSIC AWARDS 最優秀歌手
1998年、SEASON AWARDS最優秀女性歌手賞
プロフィール
タイ芸能界にとって、マイ・チャルンプラは、演劇と歌の両面で高いクオリティーで活躍する数少ない存在の1人だ。彼女は10歳になったばかりの頃、芸能界にデビューした。デビュー作は、映画「コー・テー・キットゥン(想いだけを乞う)」で、次に、「ドゥアング・イワー(最愛の人)」に出演した。1985年、この作品で、彼女はサラスワディー金の人形賞を受賞した。彼女の名声は芸能界で広く築かれた。その後、彼女の出演する作品は、映画だけでなく、TVドラマや舞台などでも注目を浴びた。
音楽方面上での『マイ』の最初の一歩は、批判と障害で溢れたものだった。それは、彼女は女優として歌手に転じた最初の役者だったからだ。デビュー・アルバムを出す前に、慎重に2年以上も歌手として練習させる決心を彼女にさせた。『マイ・ムアン』は1989年にリリースされた。作品の質は高く、スターとしての知名度に頼るだけの作品ではなかった。POP ROCKのスタイルで、タイの歌謡界でこのジャンルの音楽のトレンドを引き起こすものとなった。「マイ」方式の歌い方で、「ジョ」「チョー」「チョー」の発声は、今日までの新しい歌手の方式の基本になった。ハスキーで男っぽい声は、しかし、力強く、感情を映し出す。評論家を絶賛させた。アルバムは、短期間に80万枚以上の高セールスを記録した。そして、同年、彼女はSESASON・マガジンの最優秀新人賞を受賞した。また、スター・ミュージックの番組から、2ヶ月間第一位の最高に好まれる歌手の立場をものにした。
次の年、アルバム『マイ・キート・ファイ』は、ヘヴィーな歌唱スタイルの作品だった。それは、「マイ」の存在感をより明確なものにした。このセカンド・アルバムで、彼女は女性ロッカーに変身した。ボーカルと楽曲のテーマは自信に溢れていて、彼女の個性と歌詞の中に女性が持っている温和さを隠しもっている。「クワック・フア・ジャイ(心をつまみ出す)」「ヤーク・ジャ・ロン・ハイ(泣きたい)」や「ファン・シ・ファン(聞きなさい)」などが、このアルバム中からヒットした。
その後、彼女は、TVドラマや映画の演劇のために時間を注ぎ込むために、歌の仕事を休んだ。そして、TOYOTA自動車のTV-CFソングを歌った。「ラック・レーオ...ラック・ルーイ(愛して...ずっと愛して)」は多くの人の耳に残るヒット曲となった。サード・アルバム『クワーム・ラップ・スット・コップ・ファー(新鮮に睡眠して、空に感謝)』を出して復活前に、彼女は、ソムサック・スリーのように、このアルバムを公表した。「シア・ジャイ・ダイ・イン・マイ(SORRY、聞こえますか)」は、ボーカル力を反映し、十分に感情を映し出した楽曲だった。このアルバムでは、MUSIC VIDEOをエジプトで撮影した。十分にプロモーションされて、海外でもヒットした。MTV ASIAによって、このアルバムは称賛され、10日間で50万枚をセールスした。そして、50万枚以上の最高記録をつくった。もう1つの最高の結果は、成功によって、彼女のキャリアがより成長した。
それから、ほとんど2年近く、音楽業界から離れて、マイは、アルバム『ピー・スア・カップ・パーユ(獅子と暴風)』を引っさげてもう一度復活した。これは、経験を熟練して培養することから生まれた作品だ。そして、彼女自身の人生がテーマだ。すなわち、「獅子と暴風」は、彼女は無力であるが、こころは、今なお、確実に自身の中で戦っている、ということをテーマとして語ったアルバムだ。ハードでディープなロック・スタイルは、このアルバムの一番明確な定義だ。
1997年、マイは『チウィット・マイ(新しい人生)』というタイトルのアルバムを出した。それは、彼女の6枚目のアルバムだ。今回は、彼女は新しいビジュアルにトライした。新しい女性として、美しい世界を見る。「苦」や「悲しみ」「憂鬱」などを口に出すことのないこのアルバムの歌は軽くて、若干ヘヴィー路線から変更をしたものだったそれは、このアルバムのコンセプトを理解させるために必要な作業だった。堅固でしなやかな女の人生を語ったものだった。たとえば、「ゴーゴーゴーゴー」「リヤン・ルー」「サバーイ・ジャイ」「空はまだきれい」などの歌だ。そして、彼女自身が歌詞を書いた「コー(乞う)」は最後を締めくくる。
1998年、彼女のアルバム『プレーン・リット(神通力を発揮する)』は、リリースされた。さわやかで、自信に満ちて、快活で、彼女自身と彼女の持ち味をフルに伝えるものだった。それというのも、イタリアン人のブルーノ・ブルヤーノという良いトラの尾(船のかじ棒-プロデューサー)を得たからだ。彼は、大いに腕をふるい、「マイ」とコラボレートした。いつもの「マイ」自身のポップ・ロックのスタイルは70年代ロックンロールのスタイルにMIXされて、フィットしたものとなった。まさに、神通力を発揮させ、耳に残る楽曲を制作し、多くの歌をチャート・インさせた。
人生の中であざかやに、「マイ」の歌の歌詞は、今なお、興味深く、次に進める。時間は通り過ぎてきた翼でさえあるが、彼女は新しいアルバムを出していない。しかし、彼女は、スペシャル作品をアルバム『Rock For Life Vol.1-2』の中に残した。そして、導いて「プレーン・プア・チウィット」のアレンジをしてきた。そして、多くの有名アーティストとともに新しく歌った。これだけでなく、彼女は、なお、アルバム『ロン・ウーイ・ピー・ノン・ロン・プレーン・アッサニー・ワッサン』の歌をいっしょに歌うアーティストの1人となった。これは、2000年5月にコンサートに、1つの回答としてつながった。
2001年、マイは GRAMMY GRANDレーベルの歌手7人と一緒にユニットを組んだ。マイ、エーム、ウー、マーシャー、ニコル、ナット・ミリア・そしてトンは、特別アルバム『SEVEN』をリリースした。それは、白いTシャツ、ブルー・ジーンズのファッションで、街中でヒットした。清楚できちんとした装いで、故意に派手さを抑えたものだった。「クワーム・ラック・タン・チェット(愛はすべて痛い)」は、スバ抜けたヒット曲となった。また、「ドック・マイ・カップ・ジェーガン(花と花瓶)」は、彼女の存在をアピールし、最高のものになった。
ほとんど4年間、彼女自身のフル・アルバムから遠ざかっていたが、彼女はニュー・アルバムをリリースした。7枚目のアルバム『コン・ディアオ・ナイ・フア・ジャイ(心の中でひとりぼっち)』は彼女の心の中にいるすべてのファンを思う力から生まれた。楽しさが炸裂する作品だ。「ルアン・コン・ター(彼女のテーマ)」がパイロット曲だ。この歌はアップテンポで重く、カントリー・ロックで皮肉っぽいリズムがぎっしりつまっている。歌をうたうパワーは、あなたを楽しさいっぱいにGROOVEさせる。そしてスローで良質歌は、内面的なフィーリングを強調している。「コン・ディアオ・ナイ・フア・ジャイ」や、他の多くの歌のように、彼女はマイ方式の歌ですべての感情を満たし、心を打つ歌をうたっている。

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