- ASANEE WASAN(アッサニーワサン)-

ASANEE WASAN(アッサニーワサン)

ASANEE WASAN(アッサニーワサン)
ポム:アサニー・チョーティクン(Asanee Chotikul) 1955年4月9日生
ト:ワサン チョーティクン(Wasan Chotikul)
所属レーベル:MORE MUSIC
<アッサニー・チョーティクン>
アッサニーの音楽への関心は、子供の頃からで、ほぼ10歳のころから父親が買ってきたアコースティック・ギターの練習を始めた。このギターは高校を卒業したアッサニーは、都会に出て行く人生を選択した。その時、すでにワサンはバンコクへやってきていた。兄弟二人は多くのパブやレストランで音楽を演奏し、ついに、タイ・フォーク・ソング選手権に応募する機会を得た。1974年、チャンピオンになった後、プロ・ミュージシャンの道が開けた。選考委員の一人であったウィマン・ジョンウィライ師が、兄弟ふたりの腕を気に入り、レコーディングに連れて行った。そして、それは、すなわち、イースン(ISN'T)・バンドの誕生の瞬間だった。
 イースンの歌のジャンルは、フォーク・ロックで、成功を収め、記憶に残った作品は、「チュット・サオ・ター・ガーム(美しい目の女性)」や「サイヤム・スクエア」などだ。イースンの歌は、アレンジされて、新しく歌われている。たとえば、アルバム『パックチー・ロイ・ナー』(1897年)の「ヌン・ミトン・チット・クライ(近くに接する友人)」などだ。
 イースンは、いろいろなパブやバーで長年、演奏して回った。そして、多くのアルバム(テープ)を発売した。ほとんどは、フォークとフォーク・ロックのスタイルの洋楽の歌で、それは彼らを飽きさせた。折りよく“ター”レワット・プッティナンと出会い、ジ・オリエンタルファンク・バンドで演奏するように誘われた。これがアッサニーにさらに多くの種類の音楽のキャリアを積ませた。それは、ジ・オリエンタルファンクがダンスのファンクのスタイルの歌を演奏するからだった。
ジ・オリエンタルファンクが解散すると、アッサニーは転じて、ロック・ミュージックを演奏するバタフライと仕事をするようになった。それだけでなく、CMソングもつくった。たとえば、「Green Spot」(ジュース)(女性が砂漠の真ん中を歩き、盆を持ち、燃え立つシーン) などだ。また、他人のためにバックアップの音楽を演奏した。たとえば、プラーチン・ソンパオの「HOT PEPPER SINGER」、また方向転換して、多くのアーティストのプロデューサーとしての役割も受けた。たとえば、タネート・ウォラクンヌクロの『デーンシウィライ(文明の土地)』そして、マイクロの『ロック・レック・レック』などだ。
自身の方向転換からある時期を裏方として働いて、アッサニーは自身の作品をつくるように決心した。ワサンを引っ張ってきて、いっしょに仕事した。デビュー・アルバムは、ロック・デュオのミュージシャンとして、『アッサニー・ワサン』の名の元、『バーホープファーン(狂人が糞を抱え込む-金の亡者-)』は、1986年に、ナイト・スポット・レーベルから出された。このアルバムは、セールス面では成功しなかったが、評論家からは最高の作品の1つと絶賛された。
アッサニーは、ロックの市場の開拓者となった。張りのあるロング・トーンという個性的な歌唱法を構築した。 続いて、GRAMMYに移籍してきて、1987年に新しいアルバムを発表した。それは成功を収めたアルバムで、アッサニー・ワッサンの名声を高めた。すなわち、『パクチー・ローイナー(ふりかけパクチー)』だ。 特に、ごろつきが失恋した歌「コ・クーイ・サンヤー(約束したことがある)」や、ソフトなラブ・ソング「ヌン・ミット・チット・クライ(近くに接した友人のひとり)」などの楽曲が有名だ。アルバム『パクチー・ローイナー』は、ソリッドなミックスやギター・ソロのメロディで絶賛された。
年が明けて、ニュー・アルバム『クラディー・ダイ・ナム』が発表された。そして、途切れずに、新作が出た。すなわち『ファク・トーン(かぼちゃ)』と『サッパロット(パイナップル)』がそれぞれ、1989年と1990年にリリースされた。それから、ひと段落して3年間休憩した。アッサニーは、自身の回帰のために休む必要があったと時期だったと言う。そして、新しいアルバム制作のために新たなるものを探す努力をした。その新作は『ルン・キン・ナーム(虹)』だ。ギターの役割を減少させ、他の楽器を増強させる努力をした。『ルン・キン・ナーム』は、1993年にSEASON MUSIC AWARDSで最優秀アルバム賞を受賞した。
『ルン・キン・ナーム』発表後、アッサニーは転じて、1995年の終盤、会社MORE MUSIC設立した。MORE MUSICのマネージメント・ダイレクターの立場で、多くの新人ロック・アーティストの成功のバック・グラウンドに彼はいた。それは、LOSOだけでなく、BKACKHEAD、SILLY FOOLSそして、JOE-KONGなどだ。1997年に至り、アッサニー・ワサンの兄弟二人は、もう一度一緒になり、アルバム『バーン・オー』を発表した。
2001年12月17日、ロック・レジェンドたる兄弟ふたりは、待ちこがれていたファンのために、新作『チンタナカーン(想像力)』を発売した。アルバムと同名の歌「チンタナカーン」で満足した年末を過ごした。アッサニーの存在は十分にアピールされた。さらに、失恋がテーマのスローバラード、「シット・コーン・ター(あなたの権利)」や「ルーク・プーチャイ(兄の子供)」は確実に聞き手の心に染みる歌だ。

<ワサン チョーティクン>
その昔、ルーイ県で青年、“ワサン・チョーティクン”は、バンコクの工芸学校に入学するために、生まれ故郷を飛び出した。まずは絵画を教える先生になりたいと決心した。彼自身は、少なからずその道の手腕の持ち主であった。ある日、フォーク・ソングのコンテストに応募してみようと思い立ち、多くの選考を通過して、最後に優勝をした。そして、アッサニー・ワサンのふたりの兄弟は、タイ・フォーク・ソング・クラブのフォーク・ソングのチャンピオンになった。1974年は、絵画の教師からミュージシャンへと、人生の変化のポイントとなった。チャンピオンになった後、選考委員の一人であるウィマン・チョンウィライ師は、チョーティクン家の2人兄弟の腕に興味を持った。そして、レコーディングに連れて行って、多くのアルバム(テープ)を発表した。歌の多くは、ウィマン師が作曲した作品だった。
 工芸学校で勉強している間、ワサンは、音楽に関連した仕事をした。アルバムを出すだけでなく、夜にパブやレストランで、イースンという名前のバンドでレギュラー出演した。ワサンは、メイン・ボーカルの役割で、ギターを演奏した。イースンがほぼ4〜5枚のアルバムを出すに至ると、兄のアッサニーは脱退して、他のジャンル音楽を勉強しに行った。ワサンは粘っこく、イースンでの活動を続けた。ワサンの基本はフォークだった。彼がこのジャンルの歌を愛していて、よりイースンの個性であると信じていたというのがその理由だった。
アッサニーが脱退してから、ワサンはイースンでアルバム『ボット・プレーン』を1984年に出した。アルバムのプロデューサーはアッサニーだった。次に自身のアルバム『バー・ホップ・ファーン』をつくる準備した。ワサンは、ギターのパートとコーラスで参加した。その後、アッサニー・ワサンをブレイクさせ、多くのアルバムを発表してきた。『パクチー・ローイナー』から、『クラディー・ダイナム(水を得たクラディー魚-喜び興奮して体を震わせるさま)』『ファク・トーン(カボチャ)』『サッパロット(パイナップル)』『ルン・キン・ナーム(虹)』そして、『バーン・オー』などだ。
しかし、これらのアルバムのほとんどの音楽スタイルは、ワサンよりもアッサニーの存在を反映していた。1988年、ワッサンは、イースンで新しいアルバム『ギター・ト』を出した。これはワサンが熟練した音楽のスタイルで、低くてやわらかいリズムにのった歌い方だった。アコースティック・ギターの音は気持ちよく、このアルバムの中には、ワサンが自身で書いた7曲を収録していた。
 ほぼ4年後、ワサンはイースンで新しいアルバム『クン・ト』をつくった。このアルバムでは、ワサン自身が4曲を書いた。それは、「クン・ト」「チャーン・マンナ」「ファン・ティ・スアイ・ガーム」そして「チャン・エーン・コ・シア・チャイ」だ。
ワサンは、自身はまろやかな歌声だと判断する。よって、スローな曲に映えると。ワサンは、「ハイ・ター」「テン・カム・ナン」のようなやさしいラヴ・ソングによって、「トのギターの音色」として聴かれ、知られたギターの音色とともに成功した。

ASANEE WASAN(アッサニーワサン)

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PALMY

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