AMP SAOWALUCK(エーム・サオワラック) |
誕生日:1965年5月13日 キャリア: 女性グループ「サオ・サオ・サオ」でアルバム10枚を制作 OST「アラディン」に参加 所属レーベル:GRAMMY GRAND |
プロフィール |
「エーム」はクオリティの高い女性歌手だ。ずば抜けた歌唱力を持ち、その個性は聞き手の心を打つ。タイ音楽業界の健常な女性の一人だ。歌手として、そして作曲家としての両面で能力を発揮している。エームは多くの歌手に歌を書いてきた。たとえば、アンポーン・ラムプンの「シア・マイ(残念ですか)」、マイ・チャルンプラの「スック・リット・スット・デット(最高の効力、最高の威力)」、ビリー・オーガンの「カム・マック・ガーイ(かなり簡単な言葉)」、マーシャーの「ハイ・ウェラー・チャン(私の時間をあげる)」など、それぞれがすべて有名で好まれた作品ばかりである。そして、これ以外にも、彼女は、スタジオで他の多くのアーティストのためにコーラスを歌うバックアップの仕事もしている。 ソロ・アーティストとしての道を歩む前に、エームは、もう2人の仲良しの友達といっしょにティーン・エイジャーの3人の女性グループ、「サオ・サオ・サオ」のメンバーであった。すなわち、“メーム”パチャリダー・ワッタナー、そして、“プム”オラワン・イェンプーンスックだ。過去ほぼ20年前に、タイで高い成功を収めた女性グループで、高い名声を得た。サオ・サオ・サオは、全部で10枚のアルバムをリリースした。1980年のデビュー・アルバム『ラック・パック・ジャイ(愛して、心に刺し込む)』は、販売面では成功しなかったが、セカンド・アルバム『プラトゥー・ジャイ(心の扉)』では、エーム自身が作曲した2曲、すなわち、「ヤーク・ルーム(忘れたい)」と「ミー・アート・ラック(おそらく愛だろう)」を収録し、サオ・サオ・サオがフリー・コンサート「ローク・ドントリー(音楽の世界)」を演奏し、最高の30万枚のテープを売ったという記録をつくった。その時代の一番好評を博するグループ・アーティストとなった。 「エーム」は、子供のころから音楽の近くに接して、興味をもってきた。彼女は父、母と愛する周囲の人という家族の中で、音楽を慕う人々と成長した。母親は、その時代の有名な歌手、すなわち「チャンタナー・キットヤーパン」で、父は音楽プロデューサーで、コーラスを教える先生でもあった。音楽家の血筋は、彼女自身の中にずっと染み込んでいた。エームは、歌を歌う才能を4〜5才からうまく発揮した。小学校5年の時にギター演奏を練習し、小学校6年のときから中学3年まで歌や詞を書く練習をした。彼女の作曲の上手さは、遺憾なく発揮され、「ヤーク・ルーム(忘れたい)」のような失恋の歌は、長い間、多くの聞き手にとって感銘の歌となった。彼女は、舞台演劇に出演し、展覧会に出展してフォークソングを歌うなど、女子校の重要人物で研究家でもあった。そして、高校1年の時に、“オー”ウィラット・ユータウォンと“ラヤー”あるいは、プラセット・ポンタナーニコンの誘いで、サオ・サオ・サオに加入した。彼は、サオ・サオ・サオの誕生に重要な役割を果たしたロットファイ・ドントリー会社をも生じさせた。 “エーム”は、休むことなく自身の作曲の能力をより発展させた。サオ・サオ・サオが飽和状態となったとき、3人のメンバーは、はっきりと自身のスタイルの中に音楽性が分かれた。エームは、ブッサバー・ダウルアンから誘いを受けて作曲家となった。彼女つくる歌の歌詞の多くは、彼女自身と周囲の人のフィーリングと経験とからくるものだった。良くも悪くもテーマを通じて多くの人生のビジョンを描いた。創造された数多くのテーマはすばらしい歌詞となった。たとえば、ナンティダー・ゲウブアサーイの「サック・ワン(数日)」、ウィヤダーの「コー・チャン(月をください)」そして、タム・ソムプラソン・ソンフアンワットの「トン・ディー・クワー・ゲウ(古いものより良くものが必要だ)」などだ。 GRAMMY所属の多くのアーティストのための作曲の仕事では、彼女はもう1つのペン・ネームを使った。それは、イーズン・バンドのためには「イン・ムアン・クート・サー」、“フォード”ソップチャイ・クライユーンセンのためには、「シン・ナット・ティー」、そして、ウィヤダーのためには「ピリー(愛より以上の歌)」という具合だ。エームは、さらに、アッサニー・ワッサンのような世代のアーティストや他の多くのアーティストのために、コーラスでの参加もした。「メー・プー・プリヤオ」「アワサーン・セールスマン(セールスマンの最後)」などのドラマの主題歌を作曲し歌った。アニメーション映画の主題歌で、ウォルト・ディズニーの「アラジン」のタイ語ヴァージョンで、トンチャイとデュエットした。映画の主題歌と多くのCMソングも歌った。たとえば、「ロリエ」「ケンタッキー」などだ。そして、2001年の暮れに、「BABY MILD」SEXYヴァージョンのCMソングを作曲し、プレゼンターに選ばれた。さらに、COKEのconfidenceヴァージョンのCM映画のサウンド・トラックでも歌った。多くの楽曲の中でも最も感銘させる彼女の歌は、盲人学校の若者のために書かれた楽曲だった。「耳で見て、誠意をもって知る」計画の中の、「コー・ペン・ダン・ドゥアン・ター・ハイ・ター(あなたにとって最愛の者であることを乞う)」だ。この歌は、歌詞が点字でも制作された。 他のアーティストのための作曲の仕事をする中、エームは自身のアルバムの制作もした。デビュー・ソロ・アルバムは、1993年にリリースされた。タイトルは、『バン・トゥックコン・ドークマイ・レック』で、歌声、クオリティ、そしてテーマのすべての面で聞き手から多く賞賛をうけた。アルバム中の歌は、彼女の主張や考えをテーマにしてレコーディングしたかのごとくものだった。彼女がそのほとんどを書いた4つの歌詞、すなわち、「コット・ダン」「ムアン・ラーン」「デュー・エン」そして「プロ・マイ・カオ・ジャイ」では、エームが、さらに、co-producerとしての役割を受け持ち、テーマとコンセプトやその他のものすべてを責任持って演出している。 1994年、エームは、セカンド・ソロ・アルバムをリリースした。タイトルは、『チーウィット・レ・チッジャイ(人生と心)』で、彼女自身の存在感がすばらしいことを明示したものだった。それは、彼女の人生と心は、生まれたときから、音楽そのものだったということだ。エームが書いた作品は、それを描き出し、明確にした。「クワーム・ソンジャム(記憶力)」、「ウッパサック(障害)」、「コ・ラオ・ラック・マイ・チャイ・ルー(そして私たちは愛し合った、そうでしょ)」、そして、「タッシンジャイ(決心)」などであった。 その後、1995年、スペシャル・アルバム『コン・ノック・レ・ドークマイ(鳥の羽と花)』は、すばらしい歌手“トンチャイ”が、タイの最前線の女性歌手の多くとデュエット・ソングを歌ったものだった。エームは、その中の1人に、1998年の暮れに選ばれた。 エームは、音楽の面での新しい盟友とともに仕事をした。クオリティの高い歌手、“サックダー・パンタシマー”と、スペシャル・アルバム『AMP-DA』を制作した。また、ほど同時期に、エームは、サード・アルバム『AMP 1st Floor』もリリースした。これは、彼女自作曲、2曲を収録した作品で、彼女の復帰の「第一ステップ」でもあった。その後、4thアルバム『エーム・エーン』を1999年に発売し、2000年の6月に、エームは新作『CITY WOMAN』をリリースした。 2001年の初頭、エームは6人の友人のアーティストとともに、特別アルバム『SEVEN』をつくった。「クワーム・ラック・タン・チェット(7つの愛)」を発表し、7人の女性それぞれの愛のビジョンを描いた。エーム自身にとって、このアルバム内の代表曲は、「マイ・マイ・コ・ディ」、「チュアイ・マイ・ダイ・ラオ・ラック・カン」などだ。 2001年の11月、彼女は、6thソロ・アルバム『AMP's Tales』で復帰した。テーマは、サオワラックと彼女が接している周囲の人の話題で、それをもう一度描き出し、聞かせたものだ。アルバム中の10曲は、ポップで易しく、気持ちのよく聴ける歌だ。言葉と深い感情をテーマに持つ。そして、このアルバムの制作で、エームは一人きりで歌う役割を担った。すべての曲は、彼女が書いたり考えたりして納得したものだった。このアルバムで、彼女は歌に対する才能を発揮している。エームは十分に声のレンジを使い、とても低いパートから最高音域間で歌っている。音楽のパートは、新しいプロデューサー・チームと組んだ。「チーム・末っ子」は、エームの作品に新しいサウンドを加えた。 2003年、特別アルバム『amp+au』はクオリティの高い歌手、ウー・ハルタイとのデュオとしての作品だ。エームは8曲を書く役割を担った。「タムナーン・コン・チョック・ディー(運の良い人の由来)」「クラーイ・クラーイ...ワー・チャイ(よく似ている....ということはYES)」、「ファイ・カップ・ナム・ケーン(火と氷)」などだ。また、リリック・プロデューサーとしても参加し、プロデュースに加わった。 |